田鶴浜の名工で知られる柴田真次は、1857年(安政4年)に宮大工・柴田新平の長男として田鶴浜に生まれました。1868年、当時12才で京都の宮大工であった吉田村(現在の七尾市田鶴浜地区の吉田町)出身の柴田真助に弟子入りした後、父・新平の急死に伴い、1872年には若干16才で田鶴浜の住吉神社の拝殿を完成させています。
真次は、田鶴浜のみならず能登一円の神社や寺院をはじめ、京都の東本願寺御影堂や鶴見の大本山総持寺の太祖堂や紫雲台の頭梁、門前総持寺の太祖堂、山門など多くの堂宇を手掛けています。そして1940年(昭和19年)に84歳の生涯を閉じました。
宮大工である真次が明治25年に手がけたと伝えられる庄屋宅が旧・藤澤邸です。紅殻塗りの柱や建具の街・田鶴浜の手仕事の痕跡が数多く残り、当時の空気感を今に残す、貴重な歴史遺産です。
藤澤邸は令和6年能登半島地震により大きな被害を受けたため、藤澤さんは現地再建を断念されました。そうした中で、藤澤邸の保存・活用に対する藤澤さんの思いを受けとめ、たつるはま未来会議のメンバーを中心に一般財団法人の設立準備に取り組み、藤澤邸の寄贈のもと、地域の確かな資源として、託されたバトンを後世につないで参ります。
2025年6月1日の藤澤邸玄関内
田鶴浜の名工で知られる柴田真次は、1857年(安政4年)に宮大工・柴田新平の長男として田鶴浜に生まれました。1868年、当時12才で京都の宮大工であった吉田村(現在の七尾市田鶴浜地区の吉田町)出身の柴田真助に弟子入りした後、父・新平の急死に伴い、1872年には若干16才で田鶴浜の住吉神社の拝殿を完成させています。
真次は、田鶴浜のみならず能登一円の神社や寺院をはじめ、京都の東本願寺御影堂や鶴見の大本山総持寺の太祖堂や紫雲台の頭梁、門前総持寺の太祖堂、山門など多くの堂宇を手掛けています。そして1940年(昭和19年)に84歳の生涯を閉じました。
宮大工である真次が明治25年に手がけたと伝えられる庄屋宅が旧・藤澤邸です。紅殻塗りの柱や建具の街・田鶴浜の手仕事の痕跡が数多く残り、当時の空気感を今に残す、貴重な歴史遺産です。
藤澤邸は令和6年能登半島地震により大きな被害を受けたため、藤澤さんは現地再建を断念されました。そうした中で、藤澤邸の保存・活用に対する藤澤さんの思いを受けとめ、たつるはま未来会議のメンバーを中心に一般財団法人の設立準備に取り組み、藤澤邸の寄贈のもと、地域の確かな資源として、託されたバトンを後世につないで参ります。
2024年2月3日の藤澤邸周辺の風景
藤沢家住宅は、七尾市の中心部から西側の湾岸地域に位置する町家である。田鶴浜町の旧街道に南面して主屋が立ち、奥に離れ、中庭を挟んで土蔵一棟を配する。同町出身の宮大工・柴田真次が建てた唯一の民家として伝わる。
建築年代は、柴田の活躍した大正頃と想定されるが、正確な年代は不明である。
主屋は、間口4間、奥行6間で一部二階建、切妻造、平入りの桟瓦葺屋根で、主屋右手に前庭を置いて落ち屋根の座敷棟を配し、それは間口2間半、奥行4間、切妻造、桟瓦葺屋根で、共に正面に半間の下屋、奥に1間の土縁を持つ。正面左手1間半を玄関とするが、左端の半間は物入とし、玄関入口および通り土間は1間である。右手に居室部を置き、下屋を含め2間半四方の店の間は洋間に改修され、その奥に四間取りに部屋を配置する。下手に八畳二間、落ち屋根部分となる上手に十畳二間、その表側は仏間、奥は座敷とする。通り土間は、当初は裏手まで抜けたと想定されるが、途中で板廊下に上がるように改修されている。廊下は離れの壁に突き当たると左に折れ、また右に折れて奥に続き、裏へ抜けることなく物置の下屋に至る。通り土間の途中に、左手に下屋を張り出して台所とし、折れ曲がった辺りに便所、風呂等の供用部を置き、台所内に洋間上の厨子二階へ上がる階段が置かれる。
離れは、間口3間、奥行4間半の総二階建、切妻造、桟瓦葺屋根で、主屋とは矩折れに配されている。主屋とは直接取り付かず、通り土間部分の屋根が角屋状に両者を繋ぐ形になる。一階に階段室と、床のある六畳間、納戸を置き、二階は座敷八畳と控え六畳、中庭側に半間の手摺りのある縁を置く。一階にも同様の縁が付き、主屋土縁の板縁が矩折りに続き、中庭を囲う。
中庭を挟んで土蔵が建つが、壁が剥落し軸部の腐朽が進み、解体せざるを得ない状況となっている。
藤沢家の主な特徴として、通り土間上部の架構が挙げられる。玄関から厨子二階の低い根太天井を通過すると、棟木まで見通すことができる吹き抜けの空間が広がる。その高い屋根下すぐに明り取り窓が設けられている。窓は台所上部に位置し、台所の屋根は角屋の屋根を葺き下ろさず、一段下げた下屋とし、その段差を利用して窓を設けている。厨子二階の階段が土間沿いの物入上部を利用して設けられ、階段室として左右の壁が屋根裏まで立ち上がり、明り窓はその外壁側に取り付くため、窓は通り土間からは直接見えないよう工夫がなされている。
また、主屋の土縁と離れの縁が一連となって中庭を望むように配され、同時に離れ二階の縁からも見下ろすことができるように考慮されているなど随所に工夫が凝らされており、大工の優れた感性と確かな技術力が伺える貴重な町屋建築である。
注:本初見は、2025年5⽉15⽇に行われた令和6年能登半島地震被災建造物復旧⽀援事業(⽂化財ドクター派遣事業)による技術⽀援調査の報告書(2025年6⽉25⽇)より、後藤玉樹さまと森本英裕さまにより執筆されたものです。
ナレーション:宮大工は民家は作らないといわれますが、真次は地元に何軒かの家を建築しています。
藤沢和夫さん(当時66歳)「こどもの頃はね、小学校の4〜5年、4年生ぐらいまでのときは、地震というのはバリバリという音がして、時計が止まるのが地震で、揺れるという感覚はなかったです。」
ナレーション:地震が揺れるものとは知らなかったという藤澤さんのお宅は、釘を一本も使わずに建てられています。およそ90年前に建てられたこの家は、今でも冬あたたかく、夏は涼しく、快適な住まいだということです。絶えず工夫をしながら、健朗で美しい建築物をつぎつぎと作り上げていった真次。
地域産業情報等提供事業DVDソフトライブラリーふるさと発信シリーズ16 No.71「匠の里の宮大工 石川県・田鶴浜町」(企画:電源地域振興センター、製作:NHKエンタープライズ21、1996年「平成8年度地域産業情報等提供事業」)17分46秒〜18分43秒より。
オープニング映像(1分45秒)
藤沢和夫さん(当時66歳)
被災前の藤澤邸界隈(17分52秒)
晩年の柴田真次(16分12秒)